きりのPFCSログ

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【我が音色は律に非ず】 03 - 虫籠

第三話(実質2.5話?)


 いくら常識知らずの迅律とはいえ、26の歳で会社の長になっている黒燕に違和を感じない訳ではない。その時は彼の年齢を知らなかったにせよ、若年、ということは分かりきっていた筈だ。然し彼はそれを「若い組織」として受け取っていたに過ぎなかったのだ。
 クラブから出ようとした時点で、時計は夜中の3時を指していた。まだ酒の飲める歳ではなかった迅律であっても、酒気帯びた空間に長居したため眠気も湛えた目は蕩けていた。
「追い剥ぎにでもあったら困るだろう?帰る家は。送っていこう」
 黒燕はそう言うと、黒い携帯端末で誰かを呼び出そうとした。
「いえ、俺には……その、……申しづらいのですが、」
 言葉に詰まる迅律。
「なんだ、心城の人間じゃないのか」
 困ったように彼が聞くと、迅律は重い口を開く。
「……家出して来ました。俺に今、帰れる家はありません。」
 恥ずかしそうに目を伏せ己を冷笑れいしょうする彼に、黒燕は腕を組んで考える。
「そうか」
 ご厚意だけは、受け取りますと申し訳なさそうに迅律が言うのを遮るように、人差し指で招きながら、黒燕が誘った。
「ついておいで」
 困惑した顔で彼の後を追う迅律。クラブの階段を降りその先に道路で待機していたのは、運転手の乗った黒く光る電気自動車であった。銜尾蛇で自動車を持てる人間は少ない。ライセンスの取得の費用や莫大なエネルギーコストにより、所持と維持が困難なためだ。矢張り会長の位にまでなれば所持できるという、一種の貫禄か。驚く迅律をよそに、黒燕が車のドアを開ける。乗りな、と迅律の腕を引くとそのまま2人は流れるように車に乗った。
「何処へ」
「君の新しい"家"さ。」
 あまりにも急な出来事に、迅律は戸惑う。
「それは、どういうことですか」
「寮みたいなものと思っておけばいい」
 黒燕は別段驚く様子もなく言った。家出して一日で目まぐるしく事態は変わってしまった。新しい音楽、人間、世界。濁流の様に飲み込まれ、迅律は最早自慢の跡継ぎとは言えなくなってしまっただろう。彼は堕落への道を確実に歩んでいった。だが悲しいかな、彼に見えているのは欺瞞に満ちた光の道だ。綺羅びやかな夜景を抜け車は高層の建物が並ぶ人気の少ない場所へと移動し、街灯の光も疎らな住宅エリアへとついた。無論、心城の家の形式は、集合住宅が殆どであった。うす汚い混凝土コンクリート製の建物に運転手が留めると、降りろと黒燕が指示をした。高給取りの迅律の実家に比べれば遥かに見窄らしい。然し、それが自分の居場所であることが彼にとっては何よりも嬉しい事であったようだ。
「合鍵というか、マスターキーは僕が持っているから、明日迎えに来るまでは自分で内側から鍵をかけて管理してしたまえ」
「ありがとうございます。わざわざ申し訳ないです。」
 襤褸ぼろいエレベーターに乗り合わせ5階にへ向かい、黒燕がカードキーを通して部屋の鍵を開ける。
「なぁに、僕の力で良ければ貸すと言っただろう。……お返しは、それなりにお願いしたいけどね。」
 黒燕は宥める様に笑った。玄関から見渡せば、そこには6畳ほどの部屋と、洗面台とシャワールームがある。ブラインド付きの大きな窓があるが、打ちっぱなしの混凝土の壁と床は冷たい印象を与え、家具が天井の照明とエアコン以外何もないのが生活感を一切感じさせない、という印象であった。
「自由に使っていいよ。家賃は後で考えようか」
「しかし、そんなに……」
 至り尽くせりで良いのか、と尋ねた。一流企業とはいえ幾らなんでも高待遇すぎると常人なら疑問視するだろう。有名人ならともかく、ただの家出青年に此処までする理由が思い浮かばない。だが黒燕は気にする様子も無く、此のくらい恩を売っておけばやる気も出るだろうと笑った。彼の思惑は分からない。ただ、彼は仄暗い湿地に住む毒蛇のように、したたかに、悍ましく囁いた。
「戻れない覚悟で来たなら、丁度いいだろう、迅律くん?」
 ――迅律は、夜と闇の深さに凍えた。

 部屋に座り込み放心状態の迅律は今日の、否、昨日か……激動の日を回想していた。さなが忍辱にんにくに耐えた蛹が割れ羽を乾かし世間という大空を知り、美しく眩い蛍光の花に誘われ喜々として舞う羽蟲の様に。其処に高家の息子迅律は居らず、ただ青い羽を広げるは蝴蝶也。何方がまことか彼が知ることは無い。夢中の名の如く彼は夢に溺れていた。詰まるところ彼は幸せであった。自由の快楽を謳歌していた。
 無論、その自由は自己責任という枷にも成る。警戒を知らぬ兎を自然界に放てばたちまち狼が食い千切る様に、彼もまた羽をもぎ取られてしまうのろうか。否違う。黒燕はそんな正直な男ではない。彼は羽ではなく脚を捥ぐ算段だ。そう蝶は永遠とわに飛び続けなければならぬ。夢に泳がせ溺死させるつもりなのだ。不幸なことに、迅律は都会に友がいない。そして蠱幇の真実を知らない。つまり黒燕の悪しき心を見極めることが出来ないのだ。此のままでは、誰も彼を止められぬ。誰も彼を救えぬ。されど、蝶は眠る。脳裏に残る電子の旋律を子守唄にし、まだ見ぬ悪夢も知らず。