きりのPFCSログ

企画「PFCS」のログです。

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【我が音色は律に非ず】 04 - 蝶の餌

第四話 男のシャワーシーンは閲注じゃないよね…


 朝10時。目覚めた彼は驚愕した。夜更かしなど出来ぬ彼は寝坊しても、こんなに遅く起きたことはない。その惨状、堕落した学生の如く。混凝土コンクリートの壁に寄りかかり、座るように睡眠を取っていた迅律。ブラインドが閉じていたので、日光の感受に時間が掛かったのであろう。提箱スーツケースから巾と予備の服を取り出し、彼はシャワールームへと向かった。
 古い公寓アパートに水温調整用熱機構の期待は出来ない。湯浴みに使える水が有るだけ光栄に思ったほうが良い。そもそも契約もしていないのに、蛇口を捻り透明な水が流れるだけ良かったと思うべきだ。迅律は服を脱ぎ、そのように言い聞かせて真水で沐浴していた。文官の息子とは思えぬほど鍛えられた体躯と高い身長は浴室を狭くした。逞しい左腕に刻まれた梁姓アスラーンの青い紋章に水が伝う。短く鋭い青髪も濡れ、手前にしなり視界を覆う。石鹸もないが今日くらいは仕方ない、と彼は巾で身を拭き取りながら、洗面台からもう一度部屋を見渡した。
 うす汚いが、窓から見える都の景色は格別だ。彼に家の相場は分からないが、それでも立地から安くないことは容易に想像できた。応えなくては、昨晩の脅しもあり迅律はプレッシャーを感じていた。売れなければ捨てられる、全力で打ち込まなければ消される。弱肉強食の世界であることを理解できないほど彼も箱入り息子ではない。只彼は目論見が浅かっただけだ。インターホンから呼鈴の音が鳴る。急いで髪を拭き、下着とジーンズを履いた迅律は失礼を承知でドアを開けた。黒燕だった。
「おはよう迅律くん、寝坊したかい」
 慌てて出てきた迅律に対しくすりと笑う彼。迅律は急速に自分の状況を理解し、恥ずかしくなる。彼の上半身が裸でも黒燕は全く気にせず、遠慮なしに胸板を触る。人に身体を触られたことなど滅多にない迅律は、軽く息を漏らす。
「良い身体しているじゃないか、昨日の服じゃあ勿体無いよ、魅せなきゃ」
「否、俺は」
 テレビに映る芸能人とは違いますよと云うのを遮られ、黒燕は細い目をさらに細めて助言した。
「姿身も芸の一つだよ」
 梁姓アスラーンの整った顔が、困惑に少し歪んだ。だがそれも一瞬。黒燕が承諾書を手に掲げて見せ、入社の契約をちらつかせると彼の頬が綻んだ。
「これは、失礼しました、自らの才を活かし御社に貢献しましょう。宜しくお願いします、黒燕さん。」
「……いい返事だ。さぁ、ここに署名を。先に服着てからでいいけど」
 確実な節目を残し、時は流れた。

 こちらも環境を整えなければならないから、準備ができたら連絡するとワイシャツを羽織り署名を終えた迅律に黒燕は申した。然し、迅律は思い出す。親に所在を明かさぬために、携帯端末を置いてきたのだ。仕方ないなと苦笑いする黒燕に、申し訳なく目を伏せ詫びる迅律。すると黒燕は部下に指示を出す。渡されたのは小さな箱で、中には黄銅で鍍金めっきされた輪状の装飾品が2個入っていた。おそらく、形状からして耳に付けるのであろう。
「これは只のイヤーカフじゃない。ここを見れば分かるが、」
 黒燕が一つのイヤーカフを取り出し、裏を見せる。とても小さな緑色の基盤に、回路が張り巡らされていた。
「受信機になっている。骨伝導だから君の耳でも大丈夫さ。充電形式は空間式充電だから接続部分もなくて装着しやすい筈だ。ま、これは本来僕の予備なんだけど……」
 左耳に金色のイヤーカフをしていた彼は携帯端末で電波受信の設定を施した。基盤の裏が一瞬光る。これで大丈夫と言われたので迅律はその長い耳にイヤーカフを装着した。試しに黒燕が端末に向かって喋ると、その装飾から声が聞こえてくる。よく出来ている、と迅律は感心した。
「別に君が使って構わないよ。……そうだ。君は2つ付けてもいいね。男の僕が言うのも何だけど、よく似合う。」
 なんとも言えない顔をした迅律に、慌てて黒燕が笑いながら付け足す。
「気を悪くしたかね。すまない。弁明するようで悪いけど、この職業は女にモテるよ」
 俺は其の為に曲を作るつもりはありませんと言いつつも、迅律も破顔した。迅律にとっては、気さくな先輩にしか視えていなかったのだ。それじゃ、と言うとあっさりと部屋を出ていった黒燕を見送ると、彼はこの状況を何とかしなければ、と部屋を見渡した。衣食住がまだ不完全であるので、本格的に一人暮らしの準備を始めようとしたのだ。そう決心した途端、小さな電子音と共に黒燕から無線が入る。
「言い忘れた。職を得ようがすぐに金は入らないぞ。飯を食いたければ暫くは散工アルバイトでもしておけ。ここは副業自由だ。電子端末が送られてきたらのタイミングでいい。最初から稼げる音楽屋なんて居ないからな。熱機構は午後から入るから、湯を使うならそれまで待て。最低限のことはこれでもしたつもりだ、あとは君次第、かね」
 大事なことではないかと思いつつ、迅律は気を取り直して残金を確認する。今は毛布と石鹸と飯が買えればいい。街を歩きながら稼ぎ口でも探すか。彼は恐ろしいほど楽観的であった。しがらみと贅に生きるより、貧しくとも自由に生きたい、其のような彼の希望を世は反映した、今はそう思わせてやった方が、良いのだ。……愚かな方が、幸せだったのだ。